結婚の形態とは?(その11)


昨日は太平洋戦争と言う、日本がその国力を越えてまで行った戦争に、国民が翻弄され、人としての幸せが蔑ろ(ないがしろ)にされた中、「駆け込み婚」と言った余りにも悲しすぎる結婚の形態が現実に存在した時代の話をいたしましたが、1945年(昭和20年)8月15日に「玉音放送=天皇の肉声による放送」が流れ、9月2日に東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ上で「日本降伏調印式」が行われ、痛ましい戦争と共に、戦時下に於ける精神的な拠り所と言うべき、全体主義の価値観が一日にしてもろくも崩れ去ったのです。言葉を換えれば日本人が自らの幸福を追求することを許された、正確にはやがて取り戻すことができる様になったのだと思います。今日は「結婚の形態とは?(その11)」として、戦後間もない時期からGHQによる占領政策が終了する頃の婚姻状況を見てみたいと思います。 


<終戦と占領下時代> 

日本がポツダム宣言を受諾して全面降伏し、戦争が終結したので、一気に自由な結婚式が挙げられる様になったのかと言えば、そうはいきませんでした。何故かと言えば、それは敗戦国の悲哀とでも言いましょうか、例え「結婚十訓」の様な決まりごとは無くなっても、破壊されつくした国土には瓦礫の山以外は何もない、戦火を免れた農村地域を別にすれば、特に都市部を中心に、着る物も食べる物も、とにかく生きる術(すべ)が無かったと言うのが正直なところだったのです。終戦を迎えた昭和20年~26年は連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters)=進駐軍によって占領下に於かれ日本の占領政策を実施していた時期なので、戦争に負けた日本がこれからどうなってしまうのかさえ分からず、とても平和を取り戻したことをお祝いしようと言う感じでは全くなかったと思います。実際、進駐軍による強姦事件が多数発生した記録が残っている通りで、政府も日本女性を「性暴力」から如何に守るかを検討し、米軍兵士用の「特殊慰安施設協会」が設立された経緯があり、GHQも都内の占領軍人用売春街を指令していたのです。この様な戦後の混乱期に於いては、結婚式の写真や記録はほとんど見つかりません。つまり、この時期は「籍は入れたけど式は挙げてない」形式が多かったのです。しかし一方では命からがら生き残ることが出来た男子が、戦地から戻ってきて日本復興の労働力確保のため?戦いから解放された喜びから?婚姻数を極端に増加させ、年間250万人を超える第一次ベビーブムが到来したのです。 


<占領時代の終了と結婚式の復活>  

1952年(昭和27年)春のサンフランシスコ講和条約発効により、敗戦国日本が主権を回復すると共にGHQによる占領政策は終了します。実際には1950年(昭和24年)から朝鮮戦争が勃発して特需景気が訪れて経済状況が好転したことや、連合国軍の一部が国内から朝鮮半島へ移ったこともあり、どん底だった日本は国際社会へも復帰し、力強く戦後の混乱期を乗り越えようと発展し始めるのです。こんな上向きなマインドの中、あれほど激しい戦争があっても、地方の農村部では婚礼文化が地域ごとにしっかりと根付いており、戦前に比べると控え目にならざるを得ないとは言え「嫁入り支度」が出来るようになり、この頃の「自宅婚」を中心とした婚礼の様子を写した写真や資料を見る事ができる様になります。一方ですっかり焼け野原と化した都市部では地域ごとの婚礼文化は残らず、また住宅事情もままならず「自宅婚」は難しい状況でした。そこで、公民館などの公共施設や料亭・旅館などの広い会場を借りて「祝言(しゅうげん)」を挙げる様になったと言われます。こういった「祝言」の会場を貸す業者が、やがて結婚式場を営むことになるのです。今日は、この辺で失礼します。

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