結婚の形態とは?(その10)


昨日は戦時中の結婚式の話から、「良心的戦争忌避者」の話へ逸れてしまいましたが、少しだけ言いたい事をご紹介できた気がいたしました。今日は「結婚の形態とは?(その10)」として、もう少し正面から戦争末期の日本の様子、そして当時の余りにも悲しい婚姻の実態を見ていきましょう!。


<結婚十訓> 

戦前の写真週刊誌「写真週報」は昨日も紹介いたしましたが、これは当時の内閣情報局が国策の一環として発行していたもので、有名なメディアによるスローガンとなった「産めよ増やせよ」の典拠となった「結婚十訓」は同誌にも掲載されました。元々のオリジナルのものは昭和14年9月30日に厚生省(現厚労省)予防局民族衛生研究会が発表したもので、日中戦争の長期化を見据えた「国家総動員法」が制定された翌年のことでした。以下に現代語に表現を変えて内容を紹介いたします。 


 結婚十訓 

 一 一生の伴侶に信頼できる人を選べ 

 二 心身共に健康な人を選べ 

 三 悪い遺伝の無い人を選べ 

 四 盲目的な結婚を避けよ(お互いに健康証明書を交換せよ) 

 五 近親結婚は成るべく避けよ 

 六 晩婚を避けよ(早く結婚せよ) 

 七 迷信や因襲に捉われるな 

 八 父母長上の指導を受けて熟慮断行(尊重)せよ 

 九 式は質素に届は当日に 

 十 産めよ殖やせよ(増やせよ)國のため 


 1930年代、日本が徐々に豊かになり、農村から都会に人が集まるようになると、特に子供がいないからと言って女性が蔑視されなくなった事と、日中戦争が影響して、それまで年間100万人ペースで増加の一途を辿っていた人口が1938年(昭和13年)には一気に30万人増まで落ち込んでしまったのです。この状況にあわてた当時の厚生省(現厚労省)が「結婚十訓」を発表し、最後の「産めよ殖やせよ(増やせよ)」が有名になったと言う訳です。探検コム「出産強制の歴史」に拠れば、この「結婚十訓」はナチスの「配偶者選択10ヶ条」を手本にしているそうで、これ以降、厚生省は1940年に国民優生法を制定して、ナチスの優生思想を強く反映した政策を採用していったのだそうです。やがてこの法律は、戦後に優生保護法へと繋がり、優生手術(生殖不能手術)の対象を「遺伝性疾患」だけでなく、「らい病」や「遺伝性以外の精神病、精神薄弱」に拡大し、本人の同意なしに優生手術を実施できるようになってしまったのです。その結果、本人の同意がない優生手術は、1949~94年の間に、統計に現れただけでも約1万6千500件も実施されたと言われています。  

一方で結婚式に話を戻せば、1938年(昭和13年)国家総動員法が制定され戦時体制に突入した日本は上記の「結婚十訓」にある様に、婚礼は質素を旨とするように法律で決められ、衣装や道具に至るまで、こと細かに制限されてしまったのです。最終的に戦争末期の頃は、婚礼は国民服で行うように定められたそうです。 


<太平洋戦争末期の結婚式>  

戦時下では物資や食糧が不足していることが常態化しており、「結婚十訓」の定めにもある通り、派手な事は出来ずに、身内で盃を酌み交わすなど、きわめて質素に行われていたのです。「結婚式」にしても昔からの「祝言」にしても、とても挙げられる状況ではなかったと思われます。服装にしても軍服や国民服のままで行われたのです。昭和20年頃には男子は召集令状で戦地へ殆どが赴く状況でしたから、その前に所帯を持たせてから送り出してやりたいとの親心から、「駆け込み婚」と言われる慌ただしい婚礼も珍しくはなかったのです。中には数日間の新婚生活だけで応召し、夫は戦地でそのまま戦死と言う悲しい話も数多くあったことだと思います。更に花婿が戦地のままで花嫁だけで済ませたり、自分の死を覚悟して敢えて結婚を諦めて出征した若者も沢山いたのだそうです。 


<まとめ> 

新郎新婦の将来を祝しての門出となる結婚式が、戦争と言う何とも悲しい状況下で、逃げ場のない運命に翻弄され、余りにも短い人生を終えざるを得なかった、この時代の先人の方々が幸せを捨て、命までも捧げてこの国を守ってくれたからこその現代の発展、私達の豊かな生活があることに心より感謝し、英霊の御霊に哀悼の誠を捧げつつ、今日はこの辺で失礼します。

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