結婚の形態とは?(その8)


現在では日中に執り行う結婚式ですが、元々「露顕の式(ところあらわしのしき)」と言う「婚姻」が行われた奈良時代から夜の儀式でした。「婚」の字が女偏(おんなへん)に昏(たそがれ)と書くのも儀式が行われる時間を表しているからなのだそうです。そもそも「夜這い=呼ばい(よばい)」は「妻問婚(つまどいこん)」で男性が女性の元に通う「通い婚(かよいこん)」であると同時に女性が気に入った男性の訪問を許す(呼ばう)と言うニュアンスが強かった訳でが、何れにせよ、夕方以降のならわしだったことは事実です。これが明治・大正・昭和になっても自宅での婚礼が主流だった庶民は、農繁期を終えた秋の時期に行なうことが多く、箪笥などをご近所へ預かってもらって宴の場所を確保する事もあったのだそうです。今日は、「結婚の形態とは?(その8)」として、昭和初期頃の形態についてお送りいたします。 


<婚礼=祝言(しゅうげん)> 

現在では、結婚式と言えば、キリスト教会?神社?お寺?となりますが、昨日もお話しいたしました通り、キリスト教式の結婚式は別にしても、神前結婚式・仏前結婚式は明治の文明開化に伴い形式が調えられた歴史の浅いものです。一説には欧米から「日本は結婚の儀式もない野蛮な国」という批判を受けて作られたと言われているくらいです。昭和に入っても庶民の結婚式と言うのは、昔からの「婚礼=祝言(しゅうげん)」と言って嫁ぎ先の自宅で親類縁者を集め、盛大にもてなして「花嫁花婿」をお披露目したのです。自宅でなく近所のお寺の広間を借りた場合も、「大願成就・家内安全・子孫繁栄」を祈祷するだけで、「結婚式」とは別物だったと言われています。現代風に言い換えれば、基本的には自宅での「人前結婚式+披露宴」が多く行われていたのです。個人的には「祝言(しゅうげん)」が日本人らしくて一番良いのではないかと思っています。 


<戦前の結婚式>  

第二次世界大戦がはじまる1940年(昭和15年)の日本の国民総生産(GDP)は、戦後15年たった昭和35年と同じくらいだったと言われています。戦前の日本は私たちが想像するよりもずっと豊かだったのです。三澤武彦氏「新日本の結婚式の歴史」によりますと、「この頃の結婚は家同士の結婚であり、その準備も親がする時代でした。娘の幸せを願う花嫁両親の気持ちのあらわれとして婚礼は豪華絢爛に行われていました。それが娘への愛情表現でもあったのです。」と書かれています。そうです、大正時代から昭和初期の婚礼が一番派手だった様なのです。「娘三人片付くれば身代しまう」の例えの通り、これは三人の娘を嫁がせるためには、娘の嫁入り支度にたくさんのお金がかかるため、財産が全てなくなって一家が貧乏になってしまうという意味があります。名古屋地方の嫁入りは有名です。「嫁入りトラック」の荷台に満載された婚礼家具を紅白の帯で結び、どんな細い路地でも決して「バック(出戻り)」をせずに嫁ぎ先へ向かいます。これは極端ですが、他にも地域に昔から残る風習として「花嫁道中」があったとされています。それだけ結婚式は人生最大のイベントとされたのです。ここに大正時代に女学生向け雑誌に掲載され、曲が付けられ流行した歌があります。これも三澤武彦氏「新日本の結婚式の歴史」からの引用ですが、皆さんも良くご存知の歌です。如何に「花嫁」が女性の憧れだったかが表れています。 


「花嫁人形」蕗谷虹児(ふきやこうじ)作詞・杉山長谷夫(すぎやまはせお)作曲 大正13年発表:https://www.youtube.com/watch?v=75PPx00dO9Q 


 金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめながら 

 花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ 


 文金島田(ぶんきんしまだ)に 髪結いながら 

 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ 


 あねさんごっこの 花嫁人形は 

 赤い鹿の子(かのこ)の 振袖着てる 


 泣けば鹿の子の たもとがきれる 

 涙で鹿の子の 赤い紅にじむ 


 泣くに泣かれぬ 花嫁人形は 

 赤い鹿の子の 千代紙衣装 


 今日は、この辺で失礼します。

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