結婚の形態とは?(その6)


結婚の形態とは?と題してお送りしてきましたが、かいつまんでみれば、「共同婚」→「妻問婚(通い婚)」→「婿取婚(婿入婚)」→「嫁取婚(嫁入婚)」と変化してきたと言えると思います。でもこれはあくまで貴族や武士の間での話だった訳で、人口の9割以上を占める庶民は、常陸国風土記に出てくる「筑波山の歌垣(うたがき)」のように、「今年の収穫を神に感謝し、来年の豊作を祈る」お祭りと言う趣旨で開催されたのが、現代で言うところの ‟大婚活パーティー” で相手を見つける形態であり、田舎の村落では村の男女が性を共有する、大らかで開放的な文化が、悠久の昔から続いていたのだと思います。では同じ庶民でも都会の庶民はどうだったのでしょうか?。今日は「結婚の形態とは?(その6)」として花のお江戸の庶民にフォーカスをあててみたいと思います。 


<恋愛と結婚は別物> 

 田中優子氏「ゆう魚斎雑録」:結婚より引用。  

江戸時代の常識では、恋愛と結婚は別のものだった。私たちの時代では、唯一無二の男女として恋をし、その結果結婚するのがいちばん幸せだ、と思っている。しかし江戸時代では恋愛結婚のことを「浮気な結婚」と言った。そして浮気な結婚は、してはならないわけではないが、いいかげんな結婚だと思われていた。なぜなら結婚生活は非常に現実的なものであり、それなりに真面目に実質的に取り組まなければならないからだ。江戸時代は恋に満ち満ちている。ならば恋はどうなのかというと、結婚する場合もあるし、配偶者とは別の人と恋愛している場合もあるし、結婚しない場合もある。つまり結婚とは「関係ない」のである。そのことはべつだん悲劇でもなんでもない。正に恋愛と結婚は全く別だったと言うことなのです。(引用終わり) 


<高い離婚率> 

 高木侃氏「三くだり半と縁切寺」より引用。  

江戸時代の話、女性はたった一枚の紙きれで簡単に離縁された、と人は言う。その紙切れを称して、三くだり半という。3行半に書く習慣だったから、離縁状を三くだり半と呼んだとか。それは次のようなものだった。 


 離別一札の事 

 一、今般双方勝手合を以及離

 然ル上者其元儀 何方縁組 

 いたし候共 私方に二心無 

 依之離別一札如件 


 亥十一月廿四日 長吉 

 おせいとの 


 意訳:離別状。この度、双方協議の上、離縁いたします。したがって、今後あなたが誰と縁組みしようとも、私に異議はなく、翻意することもありません。以上、本状を以て離別状と致します。亥年11月24日。長吉。おせい殿。 


 三くだり半が夫から妻に渡されたからといって、妻が泣く泣く実家に帰っていたわけではない。江戸時代には離婚は恥でも何でもなかった。気に入らない男性を、さっさと見捨ててしまった女性もいた。現在、離婚が増えていると巷間では騒いでいるが、明治前期の離婚はすこぶる多い。現在の離婚率は、増えたといっても1パーセント台だが、明治初期には4パーセント近かった。これは江戸時代の離婚の多さを反映したものだといわれる。 


 この離婚は、夫による一方的な追い出し離縁だったのだろうか。実は、追い出し離婚だけではなく、妻のほうからの飛びだし離婚も多かったのである。しかし、女性の再婚にあたっては、離縁状が必要だったので、必ず三くだり半は書かれた。夫には三くだり半を書く権利ではなく、書く義務があった。権利と義務では、その性質はまったく正反対である。この時代の離婚は、夫婦双方での協議離婚が主流であり、夫からの追い出し離婚だけで、江戸時代を見るのは誤りである。次の5つの場合は、妻から一方的に離婚できた。現在の離婚条件よりも、はるかに女性に有利だった。 


 1.夫が妻の承諾なしに、妻の衣類など持参財産を質に入れたとき 

2.妻と別居もしくは音信不通つまり事実上の離婚状態が3~4年続いたとき  

3.髪を切ってでも離婚を願うとき 

 4.夫が家出して12カ月(古くは10カ月)が過ぎたとき 

5.比丘尼寺(縁切寺)へ駆け込んで、3カ年が経過したとき 


 江戸時代の縁切寺は、鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺だけであったが、妻からの離婚靖求もかなりの程度に認められていた。働かなくてもすむ専業主婦はいなかったので、すべての女性は労働力だった。未婚・既婚を問わず、江戸時代の女性たちはよく働いた。働き手である限り、女性の存在が軽んじられることはあり得ない。むしろ明治の中頃になって、民法によって家制度が敷衍され、男尊女卑が強制されたことによって、女性の地位は厳しいものになったのである。 以上引用終わり。 


 現代でも「愛想をつかした」という意味で使われている「三行半をつきつけた」という言葉ですが、上記の引用でもお分かりの通り、重要なのは、離婚が成立するには妻側の承諾が必須であったことです!。その承諾の証拠として、三行半の受取書である「返り一札」を妻側に出してもらったと言う史実が残っているそうです。また、妻が三行半を受理していないのに、夫が一方的に離婚を言い渡した上に再婚してしまった場合は、重婚の罪に問われ「所払い(ところばらい)=追放の刑」に処せられたそうです。三行半を書くのは夫の「義務」であり、三行半なくしては離婚も再婚もできなかったのです。ちなみに、この三行半は夫から妻に出すのが基本でしたが、「先渡し離縁状」と言って、妻が夫に書かせる場合もありました。夫が怠け者や賭け事をするなどの問題がある場合、妻が先に離縁状を書かせて、取って置く場合もあったようです。 


<花のお江戸庶民の結婚の実態>  

ずばり「お見合い」です!。マナー講師の平松幹夫氏の言葉を引用させていただくと、当時のお見合いは庶民の風習でした。現在のようにお茶や食事をしながら会話をするというスタイルではなく、世話人が選んだ場所に女性を連れて行き、それを男性が物陰から、顔立ち、スタイル、立ち居振る舞いなどを観察(見合い)します。そして、男性が女性を気に入ったら、世話人に扇子を託す。その扇子を世話人が女性宅に届け、それを女性側が受け取れば、婚約成立という仕組みだったそうです。そしてもう一つは、「くっつき合い」と呼ばれた恋愛です。これは、長屋の庶民ならではの結婚の形態です。しかも「できちゃった婚」が結構多かったと言うのですから驚きです。武家や商家の人にとって、結婚は自分で決められることではなかった訳ですから、たぶん、自由に結婚できる庶民が羨ましかったかも知れません。 


<まとめ> 

現在の私たちの祖先のほとんどが農民や町人であったわけで、日本人=武士という考え方は、そもそも間違いだと言えると思います。江戸時代の人口は約3千万人前後で推移していたとされますので、その9割≒2千7百万人を占めていたのは武士ではなく、ごく普通の一般庶民です。江戸時代の江戸庶民の人口は所説ありますが凡そ130万人、当時の庶民たちの結婚と言えば、「夫婦別姓」であり、ほとんどの夫婦が「銘々稼ぎ(めいめいかせぎ)」と呼ばれた共働きでした。ちなみに庶民でも庄屋や中小の自作農は「姓」を持っていました。また何より、「夫婦別財」であり、夫といえども妻の財産である着物などを勝手に売ることはできなかったのです。要するに、明治民法が制定されるまでの日本人庶民の結婚とは、限りなくお互いが精神的にも経済的にも自立したうえでの、より対等な経済共同体という形に近かったわけです。さて令和を迎えた現在、国民の平均年収は約420万円と言われておりますが、女性がお見合い相手を選ぶ際の条件として「年収〇〇〇万円以上」を挙げられる方が非常に多いと感じています。しかし、通常は女性の年収はプロフィールには記載されませんし、ご入会される時の必要書類として「収入証明書」の提出が義務付けられているのは男性の方のみです。「夫婦別財」で「銘々稼ぎ」だった江戸時代の庶民は今よりも自由で対等な夫婦関係を築いていた様に感じてしまうのは私だけでしょうか?!。今日は、この辺で失礼します。

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