結婚の形態とは?(その3)


元々「結婚」と「恋愛」の間が意識されていなかった記紀万葉の時代には、大らかな自由恋愛が主流でした。最初は「共同婚=単なる男女の結びつき」で、生まれた子供は部族みんなで育てられていたので、一夫一婦制の考え方も、夫婦が同居することもありませんでした。庶民は特に「夫婦」と言う形態よりも、部族の中で子が生まれて繁栄していけばそれで良しとされたのです。父親は誰だか分からないので、必然的に母親の一族が中心となって子の教育が成され、財産も娘が相続する母系社会が形成されていったと考えられます。今日は「結婚の形態とは?(その3)」をお送りいたします。 


<婚姻と言う考え方> 

奈良時代頃からは「露顕の式(ところあらわしのしき)」と言う「婚姻」が行われ男を女側の家の一員としたと考えられています。「夫婦」と言う考え方が出てきたとは言え、その関係性は希薄で、「妻問婚=男から女への通い婚」であり夫婦は別居、離婚も簡単で、夫が妻方に通わなくなったら「床去り」「夜離れ」と言われて離婚となったのです。また通ってきた夫を妻が返してしまえば、やはり離婚です。何ら「婚姻宣言」も「婚姻届」もない結婚は大変あいまいなものだったのです。ですから、一夫多妻はもとより多夫多妻となる婚姻も珍しくなかったと言うことになります。この「妻問婚=男から女への通い婚」は平安時代までずっと受け継がれていくのです。 


<婿取婚(むことりこん)> 

平安時代になると、「妻問婚」は「婿取婚(むことりこん)」に形を変えて行きます。夫婦の居住形態も、それまで主流だった別居から妻側の家への同居へと変化していったと考えられています。当時は「婚姻令」が定められ①男は十五歳、女は十三歳以上に達しなければ婚姻は許されないとされました。②女の結婚にあたっては特にその祖父母・伯叔父母・兄弟・外祖父母の承諾を得なければならない、とされていました。③結婚には媒人を必要とする、と決められていました。④正妻を有する者がさらに他の女を正妻としてめとることは許されない、というものです。しかし、それでも母から娘へ家や財産が引き継がれる母系社会は、後に武家が台頭する様になる鎌倉時代まで続くことになります。 


<嫁取婚(よめとりこん)> 

鎌倉時代頃の一夫多妻の慣習は妻を3人まで持つことが許されており、婿取婚の形をとりながらも、ある程度の一定期間が経過した後に夫側の家に居住を移すと言う様に変化してきており、それまで長きに渡って継続してきた母系型家族の形がだんだんと崩れてきます。それに伴って特に武家社会では父権が強く台頭することとなり、必然的な形として「嫁取婚(よめとりこん)」が現れます。武士は結婚しても土地を離れることは出来なかったので「嫁取婚(よめとりこん)」が進んだとも言われますが、上流の公家では伝統的な「婿取婚(むことりこん)」だったことから二重の形態が両立する形になり問題も生じましたが、やがて武士が力を強めるようになってくると、公家と武家との間でも「嫁取婚(よめとりこん)」が行われ出しました。  

①鎌倉時代になり、武家社会の色彩が強くなると「個人」から「家」へと社会基盤が変化しました。租税も個人単位から家単位で課税され、負担する様になりました。婚礼のしきたりが整い始めたのもこの時代と言われています。ちなみに「お色直し」や「引き出物」「里帰り」などは現在でも使われている古くからの慣習です。 

 ②母系型家族が崩れ、武家では「嫁」が男性の家に入る「嫁取婚(よめとりこん)=嫁入婚(よめいりこん)」が結婚の基本形とされるようになってくるのは、室町時代になってからと言われています。権力固めやお互いの家のメリットを婚姻関係を結ぶことで、盤石なものとするために策が練られた「政略結婚」も当然のように行われていました。 

 ③鎌倉時代は「婿取婚(むことりこん)」から「嫁取婚(よめとりこん)」への変化の過渡期だったと言えます。男性が力をつけてきたことは確かですが、全てにおいて男性優位ではなかったのです。女性が結婚しても夫の姓を名乗らず実家の姓を名乗り、親の領地を相続する権利を持っていた為、男性と女性の力関係は、同じ程度あった事がわかります。また、夫の土地と、妻の土地を、夫だけでなく、妻も合わせて経営していました。もし、妻が夫よりも先に死んでしまった場合には、その土地の所有権は、夫には移らず、子供に相続され、夫の土地とは、しっかり別に分けられていたのです。 


<農村部の婚姻>  

今まで述べてきた様に、鎌倉時代は母系型家族から父系型家族へ、「婿取婚(むことりこん)」から「嫁取婚(よめとりこん)」へと変化した過渡期だと言いましたが、公家はこれまでと同じに家と家の結びつきが特別必要だった訳ではなく、また農民も農村部で農業を営んでいる農民にとってもそんなに必要な制度ではありませんでした。公家や農民にとっては、特に武家の婚姻制度へ合わせるメリットは無かったと言えます。先日も書きましたが、そもそも「婿取婚(むことりこん)」が成される様になった背景には、農耕生活が一般的になるにつれてのことであり、武家の婚姻制度に合わせる必要性は余り無かったのです。特に、農家を生業にしている家族にとって、娘は年齢的にも大事な労働力ですので、手放したくないですし、婿になってくれる方は、喉から手が出るくらい欲しかった労働力だという事です。 


<まとめ> 

これは現在でも言えることですが、「婿取婚(むことりこん)」が、廃れてしまった背景は、農耕生活が薄れていった事も理由として考えられます。地方の農家は子供が娘しか居なかった場合は「婿取婚(むことりこん)」をして代々続いてきたと言えますが、親の代で農家を続けることをやめてしまうことが増えたので「婿取り」をする必要がなくなってしまった訳です。今日は、この辺で失礼します。

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