結婚の形態とは?(その2)


昨日は、古事記や日本書紀にその記述が見られる、「共同婚」と呼ばれる「自由恋愛=単なる男女の結びつき」の時代から、母親を中心とした母系氏族の形成を経て、やがて古墳時代頃に「妻問婚」に発展したところまでをお話しいたしましたが、今日は「結婚式」が生まれるあたりから、その内容を中心に「結婚の形態とは?(その2)」と題してお送りいたします。 


<当時の出会い>  

源氏物語などに描かれている当時の貴族社会では、女性は、人目を避けるのがたしなみとされ、同世代の男性が直接に、適齢期の女性と知り合う事はまれでした。男性は、まず女性の風聞を耳にしたり、苦労の末の垣間見(かいまみ)によってその容姿を知り、求婚の歌や手紙を送りました。女は最初侍女による代筆の返事を送り、交渉の進展次第で自筆のものを送りました。やがて、親達の同意を得、男が夜に女のもとを訪れ、契りを結びます。翌朝、男が女の元に文(ふみ)を送るのですが、これを「後朝の文(ふみ)」といいます。早く届けられるのが、誠意の証とされ、三晩にわたって、男が女のもとに通うのが男の結婚の意志をあらわす事であったのです。 


<露顕の式(ところあらわしのしき)> 

これが奈良時代頃に農民の間で生まれ、やがて平安期に貴族の間で広まったとされる、元祖「結婚式+披露宴=婚礼」です。当時の戸法(民法)では唐の習慣に倣い、男子15歳、女子13歳で婚姻が許される様になりました。勿論、現代と同じように貴賤(身分の差)によって様々だったそうです。どういう事かと言えば、男が女の家へ通う形はそれまでの時代と同じですが、三日目に寝ているところを家族が見つけて「三日夜の餅(みかよのもち)」を食べることで「婿」にしてしまうと言うところが特徴的です。「露顕の式」は「三日夜通い(みかよのもち)」と呼ばれる夜這いの三日目にする儀式だったそうです。以下にその内容を紹介します。中々歴史的な資料が見つかりませんでしたが、出典は「Privatter」様のサイトから引用させていただきます。ちなみに現代でも、秘密など隠していたことが表に出てしまうことを、「露顕(ろけん)する」と言いますが、三日目に親戚中に公式発表される元祖「婚礼」からきていたのです!。 


<露顕の式の内容> 

①一日目は女側の親に挨拶し新婦と共寝する(一夜を共にする)。翌朝に「後朝の文」を誠意の証として出来るだけ早く送り、二日目も普通に通い、三日目の朝には「三日夜の餅(みかよのもち)」が届けられて、女性側親族・知人への「露顕の式(ところあらわしのしき)」となります。公家の婚礼の様な豪華なものだとここで立派な管弦楽付きの宴になったそうです。 


②三日目通して通う夜、女性側の親族は男が家族になるようにと「階」と言って部屋の入り口に靴を脱ぐ場所に置かれている靴を抱いて寝るという習慣があったそうです。通う間の朝ごはんは女側が出します。つまり、朝ご飯を食べてから文を交わして帰るまでがルーティーンになっていると言う訳です。 


③三日間設ける理由はキャンセル期間を設けるという事だったそうです。お餅を食べると基本離婚不可になります!。ここはポイントで、お餅を共に食することで一つになるという意味があるのです。二日目以降、通わないという事でも離婚?というか別居になりますが、結婚したら女性側が男性の衣服などの面倒をみるという風習があったそうです。 


④「露顕の式(ところあらわしのしき)」は肉親だけでなく親戚一同に公開する、いわば披露宴です。三日通いの間は肉親の一部や下働きが知っているのみですが、結婚成立すると一族友人に公式公表するということになります。三日夜餅は「黒塗の角膳に一対の鶴の箸置き、小さい銀のお盆三皿にに丸餅が載っている」形をしており、男性側が歯で食いちぎって食べてはいけないとされていたそうです。たぶん縁起を担ぐ意味があったのだと思います。 


<宴会の作法>  

冠婚百科の「日本結婚史」によれば、日本の古い習慣では、宴会は非常に厳格な作法があり、酒宴でも客が席に着いたところでただちに酒が出るのではなく、はじめに高坏(高い台のついた食器)にもてなしの料理を載せ、全員に運び終わると、次に酌人が上席から酒をついでまわり、これを「一献(いっこん)」といいます。次に第二台の料理になります。そして同じように酒をつぐと「二献」が終わります。ついで「三献」が始まって座を閉じ、正式の宴は終わる。この「露顕の式(ところあらわしのしき)」の間は、殿中の燈篭、灯台の明かりは消さないのが吉例で、宮廷民間ともに同じ作法だったそうです。 


<庶民の結婚>  

この時代、貴族の結婚の形については多く資料が残っている事が多いのですが、一般庶民の結婚のあり方は記録として残っていないものが多く、貴族の婚礼よりもっと質素だったと思われます。奈良時代初期の713年に編纂された常陸国風土記によれば、庶民の場合、「歌垣(うたがき)」など、祭りの場で未婚の男女が出会い、歌をやりとりすることで、求婚相手を見つける集いの場となっていたようです。春の田植えが終わると「豊作になりますように!」と祈りがこめられて行われ、秋には「今年の収穫を神に感謝し、来年の豊作を祈る」という趣旨で開催されたのが「歌垣(うたがき)」の源流だと言えます。ここ「茨城県の筑波山」の歌垣は、「兵庫県の歌垣山」、「佐賀県の杵島山」とともに、「日本三大歌垣」と呼ばれたもので、現代で言うところの‟大婚活パーティー” の会場だった場所なのです!。そんな一大聖地で、結婚相談所を営むことができていることが、古代の民から社会貢献を託されている、何か不思議な心持ちであり、ご先祖代々からの大きな意思を感じずには居られません!!。今日は、この辺で失礼します。

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